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日記と雑文を掲載しています。実在していた人物について創作していることもございますのでご注意ください。

ゆきをんな

 とりわけ永い夜だった。

 きゃらめるいろの砂上を、ひうぅ、と頼りなさげに撫で行く風は、どこまでもつめたくて、昼間よりもうんと下がった気温とともに、ふたりぼっち、老人と少年の身を情け容赦なく苛む。

言葉も交わすことなくテントを広げ終えたふたりは、逃げるようにして薄っぺらい寝袋に潜り込んだ。

 

 ひたり、ぽた。乾ききった褐色の煉獄に似つかわしくない水音に、少年は目を覚ました。

眠りにおちてからまだ幾許もたっていないらしく、テントの中は未だ真っ暗だ。変わらぬ視界に自分の居る世界が分からなくなるも、止まぬ水音が、少年を夢のような現に揺り起こす。手探りでろうそくを引っ張りだしてきて、火をつける。狭いテントに二酸化炭素が充満しないように、と祖父越しに入り口へ手を伸ばす。と、同時に、少年の双眼は異常な光景を認めることとなった。見知らぬ若い女が、祖父にくちびるを落としている。

 夜の砂漠を歩いて来たとは思えぬ絹の髪、瑞々しい肌。そこで灯りに気付いたのだろう、女は少年へ向き直り、極上の顔(かんばせ)に陶酔にも似た感情をにじませて、のたまった。

「かわいい坊や、お前はお行き。けれどもね、

今夜のことは、誰にも言ってはいけないよ。

お前がもしも言ったなら、私は世界のどこにいたって、お前を殺してしまうんだからね。」

 それから何が起こったのかを、少年は覚えていない。ただ、翌朝、隣で眠る老人はつめたくなっていて、たまたま通った隊商(キャラバン)に拾われた少年のことは、世界がほんのすこしだけ記憶していた。

 産まれついた頃から砂上で生きてきた。身を蝕む土地の厳しさに、街で生きようと思ったことも幾度となくある。それでも蟻地獄の

ように戻ってきてしまうのは、己の血に宿る隊商民の血故だろうか。かつての少年は、時を経てなお絹の道の行き来を生業としていた。

昨日と変わらぬ、いや、生まれた頃から変わらぬ砂の海を往く。数え歳で二十と少しの青年であるところの彼は、隊商の中でも若い方だが、その器用さを買われて、列の後方での見張り役を担っていた。己に続く、荷を積んだラクダたちに異常がないかを時折振り返って確かめる。幾度となくそれをくりかえして、

西域ももう抜けられるだろうか。そんな時だ。

 けぶる砂ぼこりに紛れた、ラクダに手を伸ばす人影が現れた。「誰だ!」青年の問いに、前方の仲間たちも振り返る。青年はするりとラクダから降りると、装いの合わせから刃を取り出した。盗賊が一人でいるとは考えがたいが、警戒を怠れば死ぬのがこの地の道理である。拭いきれぬ恐怖を噛み殺すように歩を進める。 

 果たして、砂除けの布を外し終えたその人は、女であった。砂漠には似つかわしくない唐風の綺羅に、せめてもの砂除けとしてだろうか、ぼろ布を乱雑に巻いている。吹く風に長い髪は乱れ、汗の跡も見受けられないほど

乾燥した肌は生気を失いながらも奇妙に紅く染まっていた。しかし、それでいてなお美しいと感じざるを得ない女であった。

 不可解さも既視感も全て封じ込めて、女の美しさが止めた一瞬を溶かしたのは、いつの間にか近づいてきていた青年の仲間だった。

「おわぁ、これはまた、いったいどうしたんだい。」

 なまりのきつい隊商民族の言葉であったが、彼女はその意図を解したらしい。唐風の言いまわしで語ることには、西域の北部を治める民の長と婚姻するために、砂漠を抜けようとしたが、列からはぐれてしまったそうだ。たまたま貴方がたが通りがかってくださって良かった。胡(ペルシャ)の楽器の音色のような声で、彼女はつぶやいた。不思議なこともあるものだ。

人の良い青年は、すぐさま隊長の承認を得ると、女に水と少しの果物を与えて、己のラクダの後ろに乗せてやった。青年の仲間は

「お前も年頃だもんなぁ。」

と笑ったが、青年の行為は下心によるものというよりは、幼少の頃隊商により救われた己の運命への恩返し、つまりは彼の砂の神への信仰と、純粋な好意によるもの、と言った方が、よっぽど正しかった。

 青年と女が結婚し家庭を為すのに、大して時間はかからなかった。無骨だが、優しく真面目な青年と、気立ての良く美しい女。二人は数人の子供にも恵まれた。そうして、二人が出会ってから数年、青年は以前よりまろみを帯びた女の輪郭に時折郷愁の念が滲むのを哀れに思い、女に帰郷させてやりた思いを募らせていた。

 期は案外早く訪れた。納品の延期に伴い雨季の交易が中止になったのだ。これ幸いと、

夫婦は子供を隊商の仲間に預けると、ラクダを走らせた。雨季の砂漠で警戒すべきはワジ(枯れ川)の増水に巻き込まれての溺死である。経験に基づいた判断で、荷積み用のラクダは一匹のみとした。驕りも慢心も、そこにはなかった。それでも自然は、二人を試した。

 とりわけ永い昼だった。

 少ない積荷は既に尽き、飢えだけが二人と共に居た。雨季にしては、というよりも、数年を通しても滅多にない乾きだった。言葉は浮き、思考は揺らぐ。今宵あたりが終焉か。

砂に生きた己の脳は、嫌でも冷静な判断を下す。子供たちに忍びないことをしてしまうなぁ。せめて母親だけでも、あの子たちのもとへ帰してやりたい。父性の形をとりながらも、その思いは間違いなく女への愛と慈しみに満ちていた。昼に捕えた虫を漉(こ)して、ほんの数滴の体液を得ると、正真正銘最後の食料であるそれを、青年は何のためらいもなく女の口元へ遣った。

 しかし、彼女の舌が器をなぞることはなかった。相も変わらず美しい声がこぼれるのを、途切れそうな意識でなんとか拾う。

「ねぇ、あなたが幼い頃に出会ったという女(ひと)の話を、お聞かせくださいな。あなたの生涯の秘密、絶対の唯一が、私どうしても欲しいの。」

 青年はしばしの逡巡の後、妻に短く感謝を

伝えた。突然のそれに女ははじめ不思議そうな顔をしたが、正しく遺言である言葉の重さを意識下に感じ取ったのか、或いはただ体力

がないのか、何も口は挟まなかった。

 そうして、なけなしの力を腹に込めて、青年は語った。愛した女に残してやれるなら、己の血肉さえ惜しくはなかった。消え入りそうな声で必死に思い出を紡ぎ終えた青年は、体力を使い切って、ばたりと砂に沈んだ。

「ありがとう、こんな私と、私の秘密を、死ぬまでずっと、愛してくれて。」

 それから何が起こったのかを、かつての青年は今も思い出しては、孫にだけ、こっそりと語る。あくまで物語を装って、だが。起きると女は衣だけを残し消えていて、ただ空のはずの水筒はいつのまにか水で満ちていた。奇跡に気付く間もなく飲み口に口をつけようとして、己のくちびるが何故か柔らかく湿っているのに気が付いて、乾ききったはずの青年は、そのひとみから涙をこぼしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 参考 小泉八雲「雪女」

 

 余談 時代は七世紀はじめ

    青年はソグド人

    舞台はタクラマカン砂漠

 (2790字)

 

  

 

 

夏休みの哲学

 

 さて、早速ではあるが、本日9月1日は言わずと知れた夏休み最終日である。そして、その最終日に宿題を書いているということは、私の宿題の進捗状況は危機に瀕している、どころか崖っぷち、ということである。

 とはいえ、宿題が終わっていないのは何も私だけではない。ひとたびメッセージアプリを起動すれば、画面は同級生の悲鳴であふれかえっている。思えば、長期休暇に伴う宿題は年三回の恒例行事だが、夏休みの宿題はどうも重く感じられる。いったい何故だろうか。私は夏休み、ひいては夏休みの宿題について哲学してみることとした。

 まず、夏休みは長いが、そのぶん予定が多いことが問題である。高校二年生の夏休みともなると、部活、夏期講習に加えオープンキャンパスなどにも行かねばならない。普段はなかなか行けない講演会や美術館を訪れるのはもちろん、大切な青春だ、遊びだって忘れてはならない。旅行に行くこともあるし、家に帰れば母親から家事を手伝ってと「お願い」をされることもある。下手をしたら普段よりも多忙だというのに、ただ「夏休みは長いから計画的にやればなんとかなる」、などというどこぞの元知事並の甘い考えで宿題をだしてくるのだから、大人はやはり傲慢である。

 次に、非常に大きい要素として気象状態があげられるだろう。何をしても暑く、図書館に向かおうとも、好きでもない勉強をしに着替えるのが面倒でない女子高生などいるのだろうか。何度も水を汲みに立つのを疎い、卓上にカップを置けばひっくりかえしてテキストを沈めるのがお約束である。

 もうひとつ、忘れてはいけないのは、どこに行っても目に付く「夏休み限定」である。アイスクリームに、テーマパークの割引、テレビの特番まで、夏休み中、陰謀とも呼べるこの凶悪な文字列を目にしない日はない。宿題は年中無休、夏休み限定は夏休み限定。どちらをとるべきかは明白だ。

 しかしそれでも、宿題はやらなければならない。甘すぎる夏休みの味をグッと引き締めてくれる、そう、いわばエッセンスなのだから。そうとでも思わなければ、後ろから響く「最終日まで宿題をやっているなんて!」という吠え声に耐えられそうにないのである。

 この作文が創作か実話か、それは夏休みのみぞ知る。

 

(924字)

タイトル未定②

祭りのほとぼりも冷め、平穏すぎるほどに平穏な夕暮れの街。長く伸びる黒影と共に、自宅への道を歩む。父の治めるこの街は、土地こそあるものの、言ってしまえば土地しかない。大人の仕事と言えば農業しかなく、学校も小中高それぞれひとつだけ。中学校からずっと着ている代り映えしない制服は、全身灰色でちょっぴり、いやかなりダサい。こんな制服を着こなせる人なんて、いるのだろうか。
———いた。それも、何故か自宅、正確には事務所に。つややかで色白な肌は頬だけがじんわりと紅く、ゆるくウェーブのかかった茶髪の下の大きな瞳の輝きは、生命への希望故か。灰色のスカートの下から伸びる足はすらりと長いが、身長としては私より頭一つ分ほど低い。以前と違い黒髪ではなかったが、まごうことなく祭りの舞人の少女であった。
震える声で事情を聞けば、神主さんが亡くなったために孫である彼女が東京から来たのだとか。そこを父に見込まれ、次の市長選挙の広報手伝いをすることになったのだそうだ。使えるものはなんでも使う、父親らしい戦略だ。とはいえそんな冷静な思考は後付けのもので、突然の展開に困惑する私が言えたのは、「お友達になってください…」という一言だけだった。

(506字)

タイトル未定①

 

早足で往く父の背を追いかける。高校生にもなってお父さんとお祭りなんて。そうぼやいてみせれば、振り返った父は眉一つ動かさず、「仕方ないだろう、お前は市長の娘なんだから。」とお決まりの台詞。イケメン敏腕市長、なんて呼ばれて人気こそあるようだが、この狭い田舎のコミュニティでは、それがかえって私の閉塞を助長させる。今だってそうだ、父の「仕事としての参拝」に追従しなければならないなんて。街の多くの人と同様私も土地神様を信仰してはいるが、故にこそ仕事の付き添いとしてでなく参拝したかったのに。
爪先が一段高い石段を蹴る。本殿に到着したようだ。向かって右に迫り出すようにしつらえられた舞台へ、案内されるがままに歩み入る。公務の一環とやらで、祭の舞を真近で見ることが出来るのだ。こればっかりは役得よね、なんてさっきまでの嫌な気持ちを若者らしい速度で裏切りながら、私は特等席についた。
幾分かの準備時間ののち、土地神様に捧げる独特の旋律が響いてくる。舞台下の人々の期待の高まりを肌で感じていると、ほどなくして舞人と思われる女性が舞台へと光臨してきた。彼女は細い指で笛をとり、僅かに旋律を産む———「毎年のこと」と無意識下に存在していたあなどりを柔くほぐすかのような、清らかな、清らかなあまりに透明な音色であった。やがてそっと笛を置いた彼女のぬばたまの髪が、回転の拍子に目前まで届いて、清澄な空気を運んでくる。光源を探るように目をこらせば、同年代と思われる少女の、果たして女神のごとき微笑があった。嗚呼、酸素が足りない———。溺れるような心地で、私はただただ彼女にとらわれていた。

 

(680字)

 

1/15更新分


『能のアイデンティティ

先日能楽鑑賞の機会を頂いた際に課題として提出したもの。

ストーリー性を盛り込んだ感想文にしたつもりだったが、読み返してみると短絡的すぎる気がしないでもない。言いたいことをより効果的に表現するには、やっぱり見せかけの語彙や言い回しよりも深い知性や学習が必要なんだなァと改めて痛感。

ちなみに、なんだか初めて能を見たかのような言い回しですが、実は他に一度鑑賞の機会を頂いておりました。すっかり失念して書き上げてしまった…。笑ってください。

 

『みるくせゑきについて』

人生ではじめてミルクセーキを飲んだ記念に。

自伝的な話や意見文はかっちり書きたい人間だが、物語調となるとすぐポエティックにしてしまう。体現止めのかわいらしい甘さが好きで、ついつい頼ってしまうのだ。

好みの文体で書きたいように書いたために、30分やそこらで書き上がったが、旧字の「え」が変換できず…。うまくコピペできていることを祈る。

 

 

今日は遅すぎる初詣に行って参りました。

神社もお寺も教会も、寒いと神聖さが増すような気がします。

まぁ、甘酒と焼きいもでしっかり暖まりましたが(笑)

 

ご高覧ありがとうございました、益子でした。

みるくせゑきについて

 

ミルクセーキって、素敵だ。

それはさながら、魔法のステッキのように。

みるくせゑき、とでも表記してみたくなるノスタルジィを溶かして、それはただただ甘くて、素敵なのだ。

 

冬の新宿を行く。

凍える寒さ、ならばまたドラマチックかもしれないが、現実的すぎるほどに現実的な本日の最低気温は8度ほど。

とはいえやはり指先はかじかんでいて、ポケットのなかのアイポッドはすこしつめたい。

ミルクティでも飲もうかな、無意識に行き過ぎた視界の自販機を検索して、来た道を戻る。おお、あったあった。ホットの段をなぞり見て、さて、ミルクティーはあるかしらん。

ふと、異物を認める。ミルクセーキ、なつかしの味。確かに、ちょっと懐かしいかも。かといって、思い出というほど常飲していたかと言うと微妙だけれど。

甘すぎるかな、という懸念と暫し戦争。ま、いいか、飲めないってことはないだろう。

銀貨と引き換えに手に入れた重みを抱えて、道の脇に寄り、なんとなくイヤホンを外して、缶のプルタブを引く。あ、爪折れそう。切らなくちゃ。

壁に寄りかかってひとくち。うーん、甘い!なんだか、意味もなくあっぱれ、なんて言って天を仰ぎ見たくなるような甘さである。こころのなかで苦笑しながら、そうは言ってももうひとくち。やっぱりとっても甘くって、こんどは少し息を零して苦笑する。

べつに、おいしいって訳じゃあないのだ。ただただ甘くて、そしてそれは、人生を肯定してくれる。理由もなくそんな気がしている。

秋空に取り残されたセンチメンタルが、控えめな日差しになって空気に沈む。気付けば空になっていた缶を伸びすぎた爪に引っ掛けて、冷えきったアスファルトを蹴った。

(690字)

 

 

能のアイデンティティ

 

能という言葉には、「できる・能力がある」という意味の他に、「知恵・技術」という意味がある。能楽における「知恵・技術」の結晶である能面は、能楽能楽足らしめるアイデンティティとも言える重要なものだ。私は、「能面」という物質的観点と、それがもたらす効果という精神的観点から今回の鑑賞をひもといていこうと思う。

私が能面との初対面を果たしたのは、公演開始前の展示室でのこと。所狭しと並べられた面は、どれもとても歴史あるものだというのに、深く刻まれた表情は、人間の不変の感情を突きつけてくる。端的に言えば、感情のトリガーになりうる、非常にパワフルなものであった。

しかし、私はここでふと違和感を覚えた。確かに力強さはあるが、それは一瞬の感動を切り取った故のもの。これらの面からは、表情の「変化」を感じられなかったのだ。ガイドにあるように、上から見てみたり、下から見てみたが同じこと。そこには静止した、名詞化できるような表情しかなかった。

能の上演中に、演者が能面をつけかえる、とは聞いたことがない。いったいどのように感情の変化を表現するのだろうか。日本古典芸能への絶対的信頼感のもと、のんきにそんなことを考えていた私は、数十分後、襲い来る感情表現の嵐に飲み込まれることとなる。

演目についての解説と狂言が終わり、休憩を挟んで能がはじまってから少しして、私は再び違和感を覚えた。演者、いや能面が、笑い、悲しみ、生き生きとその表情を変えているのである。何故?先程どんな視点から見ようと変わらなかった面が、今、生きて、私に一人の人間の感情を伝えている!それは予想し得なかった新鮮な感動であると共に、人形劇でなく、歌舞伎でなく、狂言でなく、能が能として存在する、ある種猛々しささえ感じる深いアイデンティティとの邂逅であった。

能は、正直に言えば気軽に見に行けるものではない。他の煩悩が脳を去来することすら許されないほどの集中を要求される。しかし、精神力を削ってでも見る価値はある。私に言えるのはここまでだ。私がかつての文豪のようであったなら、嗚呼、もっと言いたいことを言えたのかしらん。とはいえ果たして、私は一介の学生だ。能が、しかるべき人々に認められ、後世までも遺ることを、ただ祈ろうと思う。

(934字)